勘定奉行 | 幕末、日本橋の勘定奉行

役宅にて

午前六時、本所松坂町 の役宅で目を覚ます。 障子の外はまだ薄暗いが、机の上には昨夜のうちに磨いておいた トマス・ハント・アンド・カンパニー 仕立ての黒のハットと、濃紺の スミス・ベイカー商会 のスーツが整然と置かれている。 ジャーディン・マセソン商会 の英国人商人たちと渡り合うには、和装では軽んじられる。 胸の奥に覚悟を宿し、モリソン商会 の白いシャツの襟を正し、ベストのボタンを留める。 グラバー商会トーマス・グラバーから贈られたハットを手に取り、深く被ると、鏡に映る自分が別人のように見える。

日本橋魚河岸 の通りに出る。漁師が船から魚を担ぎ上げ、陸に置く。 市場のこの風景はいつまでも変わらず、ここにあり続けてほしいと思う。 ふと、道行く町人の視線が集まる。まるで見世物を見るかのような、驚きと、どこか冷たい笑いが混じった目だ。それでも歩みを止めない。

高下駄の音に混じり、革靴の硬い足音が石畳を刻む。 開港場・横浜本町通り の近くでは、赤毛や金髪の外国人が増え始めると聞く。 彼らは堂々と道の中央を歩き、和装の日本人が道端に避けて通る。 その様子を横目に、胸にざわめきが広がる。 「この国は、すでに、誰のものなのか」 幕府の台所を支える以上、彼らと同じ舞台に立つしかない。 ハットの陰で呟き、唇の端がわずかに歪む。

午前中は横浜会所からの報告書に目を通し、急激に減る金貨の残高に眉をひそめる。 銀座煉瓦街からは交換比率引き上げの要望書が届いていた。 御用金の取り立てはすでに限界に近く、両替商との折衝で一時しのぐしかない。 そろばんを弾きながら、次の一手を思案する。 「攘夷の声は大きいが……閉ざせば金も民も干上がる」 つぶやきが帳場に漂う墨の匂いに溶ける。

昼、勘定所を抜け、両替町の唐物屋通りの帳場へ向かう。 両替商では、番頭たちが畏まって迎える。 交換比率の見直しを伝えると、番頭は難しい顔をして頭を下げる。 奉行は淡々と帳簿に印を残す。 「どこまで持つかはわからぬ。だが、やるしかあるまい」

夜、役宅に戻ると、玄関でそっとハットを脱ぐ。 肩の荷が少しだけ軽くなる瞬間だ。 筆を取り、日記を綴る。静かに夜が更けていく。

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