
両替商
江戸時代、日本橋の両替商
布団の中で目を覚ますと、まず帳場の隅に積んでおいた 飛脚問屋・大黒屋 の書付を手に取る。 堂島米会所 の米相場がやや上向いているのを確認し、錦小路 の 長谷川屋 の仲間から届いた書状もざっと目を通す。 来月の御用金を 御勘定所 に支払う段取りがどう動くのか、気になるところだ。
釜屋町 の釜師・阿部清兵衛 に頼んだ鉄瓶で湯を沸かし、煎茶をすすりながら、神田 の味噌屋・山本屋総本店 の甘味噌に漬けた胡瓜をかじる。 いつもの 鳩居堂 の伽羅の香袋を襟元に仕込み、オランダ船 から届いた 長崎唐人屋敷 の異国の香油をつける。
稽古場へ向かう道すがら、早朝の稽古場で刀を握ると、身が引き締まる。 護身のためでもあるが、商人としても、なまった体がどうしても許せないのだ。
帳場に戻ると、幕府の勘定方役人が二人、帳場の前で待っていた。御勘定所 からの呼びつけかと一瞬身構えるが、今日は御用金の内訳と支払期日の相談に来ただけのようだ。 こちらが差し出した帳簿の金高を見ながら、役人は小言混じりに「御城内 の出入りも多く、遅れは勘弁ならぬぞ」と念を押してくる。 表面では笑顔で応じながらも、内心では「こちらも米相場次第で綱渡りだ」と苦い思いが過る。 やがて書類に判をもらい、次の用事へと帰っていく役人を見送り、番茶を一口飲んでようやく肩の力が抜けた。これも御用両替商の務めである。
帳場に腰を下ろし、書付を整理しているうちに、浅草御蔵前 の侍が支払いを滞らせているとの知らせが届く。 身分ばかり高く、金勘定はからきしだ。内心は苛立ちながらも、笑顔で応対するしかないのが、商人の辛いところである。 今月の支払金額をそろばんで弾くが、玉の動きが硬い。 越後屋そろばん店 の評判の新しいそろばんは、玉が軽く、滑りが見事だと聞くと、どうにも欲しくなってしまう。
昼は、暖簾元 に頼んでおいた菜飯と白胡麻の味噌汁を、帳場でさっとかき込む。
帳場に腰を据え、かわら版・黒田屋版元 をめくると、長屋の若い衆が囲炉裏端で話していた「蘭船 の眼鏡と時計」の話題が気になって仕方がない。 さらに、長屋の若い衆が教えてくれた「白鶴 の 灘新酒」も心に残る。 まだ江戸には出回っておらず、柳橋 の茶屋・吉田屋 で味わえるのはいつになるのだろうか。
夜、オランダ の香木を枕元に置き、異国の香りにまどろむ。 明け方の 時辰鐘 に合わせて起きられるよう、五ツ時 に目覚めると心に決め、帳場の奥で静かに目を閉じた。